こふんの雑記

日常生活でふと気になったことや、その他のことも色々書いていこうと思います。

三国志 呉が成立した地「長江中下游平原」について

皆さんこんにちは。
前回は三国志 魏の曹操の陵墓について記事にまとめてみました。

↓前回の記事

kohunzakki.hatenablog.com

前々回は蜀漢の成立した地「四川盆地」について記事にしているので、今回は三国志に登場する国のひとつ、孫呉が成立した長江中下游平原についてお話していこうと思います。

どうぞ、お楽しみください。

長江中下游平原とは

長江中下游平原とは、その名の通り長江の中流域と下流域に沿った形で広がっている平野であり、東北平原や華北平原に次いで3番目に広く、中国の三大平野の内の1つです。

中国 地理

中国 地理

大きさのイメージとしては、20万平方キロメートルなので、日本列島の本州(22万7942平方キロメートル)と大体同じくらいの広さを有しており、とてつもなく巨大な平野です。

王朝の都が置かれた地「関中」や、蜀漢が根拠地とした「四川盆地」は、どちらも険しい山脈といった天然の要害で囲まれている土地であることを記事にまとめましたが、呉が根拠地とした長江以南の江南と呼ばれた地域もまた「長江」という天然の巨大な堀によって、華北平原と隔たれており、華北の勢力からの侵攻を防ぐのに適した地であることが分かります。

 

中国 地理

中国 地理

長江中下游平原一帯は、温暖で雨が良く降ることから農業に適した穀倉地帯だそうですが、呉が建国されるまで江南の地は本格的な開発が進んでいなかったようです。

あまり強い勢力がいない空白地帯だったからこそ、孫策孫権が呉の基盤を築くことができたのかも(´-ω-`)

でも、本格的に開発が進んでいなかったにしても、三国時代から400年以上前の春秋戦国時代に、大国楚が華北の国々に対抗できていたことから、元々国を維持できるぐらいの生産力はあったのですかね? 本拠地が長江中流域にあったにせよ、華北平原にまで領土を広げていた楚とはまた条件が違うかもですが・・・

三国志 地図

三国志 地図

上の地図を見ると呉の領土は広く、長江中下游平原も日本の本州ぐらいの広さを誇ります。

中国 山地

中国 山地

↑赤く塗っている部分が、標高が高い山脈や高原になります。

しかし、見ての通り呉は領土の大部分が山地であり、華北平原の平地の面積と比べるとその差は歴然です。国力も人口が集中する中華の中心地を抑えている魏と比べると、雲泥の差があったようです。それでも三国の内最後まで生き残れたのは、やはり長江の存在とそれを活用した水軍の存在が大きいのでしょう。

呉の水軍

そういえば、呉の水軍の強さは三国志のドラマ、スリーキングダムでも良く言及されてた記憶があります。川といっても大きい軍艦が展開できるぐらい、幅がとてつもなく広い大河ですので、まさに天然の堀のような役割を果たしたのだと思います。

全然関係ない話になるんですが、663年の斉明・天智朝期の日本が、亡国の憂き目にあった百済を救援するために朝鮮半島の白村江という場所に、数万の兵を送り、当時大陸を治めていた唐と戦争を始める訳ですが、唐は古代から培われてきた水軍と巨大な軍艦を以て、日本の水軍を大いに苦しめたのかもしれません。

そもそも当時の日本は国内でも本格的な海戦をやったことが無いっぽいので(間違ってるかもしれませんが)、勝負にならなかったかもです。日本国内での最初の本格的な海戦は源平合戦になるんですかね?

孫呉の最後

呉 初代皇帝 孫権

呉 初代皇帝 孫権

長江中下游平原に成立した呉ですが、初代皇帝孫権の晩年、朝廷では後継者選びなどの政争が相次ぎ、臣下達も対立をし始めました。そんなことが続く中で、第四代皇帝孫晧が暴君だったりと、朝廷内がさらに混乱に陥りました。

そして最後は魏を簒奪し蜀を滅ぼした晋による水陸両方の侵攻を受けたことで、孫晧(そんこう)が降伏し、呉は滅びることになりました。内輪もめして国力が衰退しちゃってるのは、蜀漢と似たところがありますね

長江は北からの侵攻には強いそうですが、蜀漢の地を抑えた勢力によって長江の上流から中・下流域に向けて侵攻されることには弱いみたいなので、晋に長江上流を抑えられたことが呉滅亡の要因の1つなのかもしれません。

呉 第四代皇帝 孫晧(そん こう)

呉 第四代皇帝 孫晧(そん こう)

呉の滅亡

呉の滅亡

まとめ

長江中下游平原はイメージしていたより、ずっと広くてちょっとびっくりです。あと、久しぶりにブログを書いたので、文字の進みが遅くてかなり大変でした(;´Д`)

これからも不定期で頑張ります。

ということで、孫呉が成立した地「長江中下游平原」についてでした。

 

三国志の英雄 曹操の陵墓と遺骨について

皆さんこんにちは。
前回は三国志に出てくる国のひとつ、蜀漢が成立した地「四川盆地」について記事にまとめてみました。

↓前回の記事

kohunzakki.hatenablog.com

じゃあ今回も魏か呉の地理をやるのかというと、そういうわけでもなく
今回は三国志に登場する英雄のひとり、曹操の陵墓から得られた情報について話していこうと思います。   
どうぞ、お楽しみください。

曹操について

まずは曹操の人生について紹介していきます。

曹操(後漢末期 155年に生まれ、220年まで生きた人物)

曹操後漢末期 155年に生まれ、220年まで生きた人物)

曹操は、後漢末期155年に 豫州(よしゅう)沛国(はいこく)、現在の中国 安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)で生まれました。

安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)

安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)

175年20歳になった曹操は、郎官(ろうかん)という皇帝の身近に使える官職に推薦され、官吏としての人生をスタートしました。曹操の祖父曹騰(そうとう)が中常侍という高位の宦官だったことから、推薦を受けることができたという感じですね。

その後、洛陽北部の治安を維持する北部尉に任じられると、たとえ有力者(当時の皇帝に寵愛された宦官)の関係者であったとしても、法を違反すると厳しく取り締まりました。その働きぶりが認められたことで(というより、宦官に疎ましく思われたことで)、栄転として頓丘郡(とんきゅう)の県令に任じられ、洛陽から遠ざけられましたが、その後議郎という官職として再び召し出され重用されました。

頓丘県のあった地域

頓丘県のあった地域

184年曹操が30歳の時、群雄が割拠する原因となった「黄巾の乱」の平定で、皇后何氏の兄 何進(かしん)、皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)や、董卓(とうたく)孫堅劉備三兄弟といった三国志で有名な武将たちと共に戦い活躍したことで、済南群の宰相に任じられ、ここでも厳格で誠実な運営を行い、官吏の汚職を摘発するなどの功績をあげています。

黄巾の乱とは

漢王朝が天下を治め400年が経った後漢末期の時代 政治中枢では、宦官・外戚勢力が私腹を肥やすために、そして出世して官職を高めるために、民に重い税金を課しており、徴収された税金で賄賂が堂々と行われるなど、政治は腐敗しきっていました。政治的な腐敗や重税の他に、天災による飢饉が起こったことで社会が混乱しました。

そこに太平道という新宗教を開いた張角が、生活に困窮していた農民を率いて184年に挙兵し大反乱を起こしました。

斉南群があった地域

済南群があった地域

黄巾の乱を平定した後も、賄賂の横行や政府腐敗などは結局治まることはなく、民衆の苦しみは続きました。政治を主導している朝廷側が勝利したので当然と言えば当然ですが、世直しにはならなかったわけですね。

黄巾の乱の後、189年 第12代霊帝の皇后・何(か)皇后が生んだ劉弁と、霊帝の側室 王栄が生んだ劉協とで、次期皇帝の後継争いがあり、何皇后側が勝利したことで、劉弁が即位しました。その過程で何皇后陣営である何進は宦官勢力に殺され、その後に政治を牛耳っていた十常侍などの宦官勢力の大分部は、袁紹袁術といった三国志で活躍する武将に殺されました。

朝廷が混乱していた時に、西涼から大軍を率いてやってきた董卓が、洛陽を制圧し、劉弁を廃して劉協を皇帝の位に擁立しました。この時の曹操は、武官として董卓に取り入り、暗殺しようと試みますが失敗し逃亡した後に挙兵します。

こんな感じで、王朝の末期はもはや自身で乱を平定して立て直すのが不可能なぐらい衰退しちゃうんですよね 後は周りの有力者たちに良いように利用されます。

皇帝の位を簒奪したい勢力が、国を復興できる有能そうな皇帝や臣下を暗殺したりして、意図的に幼い皇帝を即位するとかもあったりするんですかね

192年 群雄の領土

192年 群雄の領土

董卓(とうたく)はその後、幼い劉協を傀儡とし朝廷で暴政を極めたことで、190年に各地で董卓連合軍が挙兵しました。董卓は連合軍との戦いの過程で、都の洛陽を焼き払い西の長安に撤退したことで、元より結束力の無かった董卓連合は解散しました。

その後の群雄たちは、対立し領土の奪い合いをしているように、みんな漢を立て直す気はさらさら無く、関中に立てこもった董卓よりも、自身の勢力を拡大することに関心を寄せた感じです。

長安に撤退した董卓はしばらくすると、義理の息子である呂布と司従の王允(おういん)の共謀によって殺害されました。なんとこの王允は漫画キングダムで登場する信のライバルの一人である王賁の子孫だそうです。

三国志 都市

三国志 都市

192年に董が暗殺され、混乱に陥った長安から逃れた第14代皇帝 劉協は洛陽へと帰還しましたが、董卓によって既に焼き払われた後だったので途方に暮れてしまいます。そこで劉協を保護したのが曹操です。

196年曹操は、自身の本拠地である許昌への遷都を要望し、劉協はこれを承諾しました。皇帝を手中におさめたこと、黄河下流域周辺の勢力や呂布袁術に勝利したこと、そして200年 官渡の戦い黄河の北、河北の支配者 袁紹と戦い勝利したことで勢力をさらに拡大させ、華北平原の覇者となりました。そして208年に漢の丞相になります。

198年 群雄の領土

198年 群雄の領土

華北平原の次は、長江周辺の後の呉の勢力範囲にある地域を支配するべく動きます。劉表が治める荊州劉表が亡くなったことで、息子である劉 琮(りゅうそう)が曹操に帰順したことで簡単に手に入りました。しかし、208年 兄孫策の後を継いだ孫権劉備の同盟軍に赤壁の戦いにて大敗を喫したことによって、曹操は撤退することになり、荊州もすぐに攻め取られてしまいます。

211年に涼州雍州の馬超韓遂らを、秦代に函谷関があった場所の西側にある黄河渭水が分かれる地域の潼関(どうかん)で破った後、212年に魏公の位に登ったことで、魏国の下地ができあがります。

214年までに涼州・雍州・関中を制圧し、215年に漢中の張魯(ちょうろ)を降伏させた(219年に蜀漢劉備に制圧されちゃいますが)ことによって、華北における主要地域を完全に統一しました。この時点で、曹魏の領土が確定した感じです。216年に漢中から戻った曹操は、魏王の位に登ります。

皇帝の簒奪まであと一歩のところまで来ましたが、220年 曹操は天下を統一することなく65歳で没しました。曹操自身は皇帝になることはありませんでしたが、子どもの曹丕(そうひ)が魏王の位を受け継ぎ、第14代皇帝の劉協から禅譲を受けたことで皇帝となり、魏を建国しています。

三国時代

三国時代

西高穴2号墓について

曹操の墓である西高穴2号墓(せいこうけつ)は、河南省安陽市 にあり、3世紀の頃に造られました。1号墳と2号墳が発見されましたが、専門家によると2号墳が曹操のお墓のようです。

西高穴2号墓の所在地

西高穴2号墓の所在地

スロープ状の墓道から15メートルほど地下に降りていくと、墓室に繋がるように造られています。墓道の長さは、39mぐらいで幅は10mくらいです。

西高穴2号墓 墓道

西高穴2号墓 墓道

地下にある墓室は、上から見ると甲という字の形に似ている4つの部屋から構成されています。真ん中にある前後の部屋や入口右側の部屋の天井は四角錘状をしており、それ以外の部屋はドーム状の天井を呈しています。

2号墳からは、男性1人女性2人の3人分の遺骨が確認されています。副葬品は男性用のものが多いことから、墓の主は男性であるようです。

西高穴2号墓

西高穴2号墓

西高穴2号墓が曹操の陵墓である根拠

西高穴2号墓が曹操の陵墓である根拠を調べてみると以下のものがありました。

・出土した男性の頭骨を鑑定すると、曹操が没した60歳前後の年齢に相当するものであると分かった。

・「魏武王常所用慰項石」と刻まれた石枕や、「魏武王常所用挌虎大戟」といった魏武王と刻まれた石碑が多数出土している。

・墓の規模が漢・魏代の王侯と同じレベルであり、曹操の身分とも一致している。

・墓葬や副葬品の特徴が、後漢後期のものと類似している。

・規模は大きいが墓の内装や副葬品はそれほど豪華ではなく、曹操の死に際に残した「戦中であることから、陵墓は質素に、金玉など宝の類も副葬しないものとせよ」という言葉と一致している。

・陵墓の位置が、曹操の遺令や後趙時代の魯潜(ろせん)という人物の墓誌に記された陵墓の位置関係と一致している。

これだけの根拠があれば、曹操の墓である可能性は高そうです。ちなみに、女性2人の

遺骨は、卞氏(べんし)という曹操の妻と、側室の劉夫人のものだそうです。

曹操の歯について

曹操の遺骨は、頭蓋骨と上あごの骨が見つかっている。特徴的だったのは上あごの骨についていた歯であり、虫歯がかなり進行していてひどい状態だったようです。

自分も数年前、高校生の頃に治療したはずの歯の根の部分にのう胞という細菌の塊ができてしまい、歯根を切除する手術をしたことがあります。手術前は寝れないぐらいの痛みでした。曹操がどれだけ痛がっていたのかが想像できます(;´д`)

現代は歯医者に行けばなんとかなりますが、古代においては、虫歯によって神経が死ぬまで、痛みにただ耐えるしか無いんですよね。神経が死んで長年放置したら、もっとやばいことになりますが・・・

曹操はスリーキングダムというドラマでも、頭痛に苦しんでいる描写があり、群発頭痛を患っていた可能性があるみたいですが、虫歯は長年放置すると、ミュータンス菌が脳や心臓に達することで、脳梗塞心筋梗塞やその他の病気を引き起こします。実際に死亡した例もあるみたいなので、もしかしたら虫歯が曹操の頭痛の原因の1つだったかもしれないですね。

まとめ

曹操の陵墓のことを中心に話していこうと思っていたのですが、陵墓のことで話すことが少なかったので、人生の方を長めにしてしまいました_(:3」∠)_

あの有名な曹操の遺骨が現存しているのって中国人的には、日本でいうと信長や秀吉の遺骨が発見されるような感じになるのかな?

あと、虫歯は痛みが無くなっても放置したら絶対にだめですし、日頃から歯医者で定期健診を受けるように心掛けてください。

ということで

以上、三国志の英雄 曹操の陵墓についての話でした。

 

三国志 蜀漢が成立した地「四川盆地」について

皆さんこんにちは。

前回ちょろっと三国志の話をしましたが、その三国志の三国の中で異色の地に成立した国があります。

相変わらずなのですが、前々回に中国大陸の地形図を作っている時に、その特異性に気が付いたので、記事にしてみようかと思います。(。-`ω-)

↓前々回に作った地形図になります。

中国 地形

中国 地形

↑ということで今回は、三国志に出てくる蜀漢が成立した四川盆地についてお話していこうと思います。
どうぞ、お楽しみください。

四川盆地の地理

四川盆地とは、四川省の中央に位置している、周りを秦嶺山脈横断山脈、雲貴高原などといった標高が高い山地や高原に囲まれた中国の四大盆地の1つです。

大きさのイメージとしては、北海道を丸々1つ入れても有り余るほどのものですので、とてつもなく巨大な盆地だということが分かります。

中国 四川省

中国 四川省

kohunzakki.hatenablog.com

↑ 前回の記事で、王朝の都が置かれた要害の地「関中」の話をしたのですが、蜀漢が根拠地とした益州前漢の郡県)の四川盆地もまた四方を天然の要害で囲まれており、防御に適していたことから、独自の政権が成立しやすい地域であったそうです。

四川盆地と周辺の地形

四川盆地と周辺の地形

↑赤く塗っている部分が、標高が高い山脈や高原になります。

関中同様に天然の要害に囲まれた四川盆地は、米などの穀物が栽培される農業地帯でもあり、特に蜀漢の都である成都が置かれた成都平原一帯は土壌が肥沃であり、「天府之国」(てんぷのくに)という別名があるみたいです。

外敵からの侵攻を防ぎやすく、穀物がよくとれる土地なんて、為政者からしたら最高の領地ですよね。ただ周囲から隔絶された盆地であり、華北平原から遠い場所にあるので、天下を狙おうとしたら不利な立地だと思います。

前漢 初代皇帝 劉邦

前漢 初代皇帝 劉邦

前漢を建てた劉邦は、漢中や巴蜀から天下を統一しちゃってるのでやっぱり規格外の人物だと分かりますね。

蜀漢の最後

三国志 地図

三国志 地図

蜀漢 初代皇帝 劉備

蜀漢 初代皇帝 劉備

四川盆地という防衛に適した地に成立した蜀漢ですが、

樊城の戦い(はんじょう)で捕虜となり処刑された関羽の仇討ちと領土奪還のために呉に攻めこみ大敗してしまったことや、

諸葛亮の相次ぐ魏への北伐により、蜀の軍事力を疲弊させてしまったこと、諸葛亮の死後行われた北伐によりさらなる疲弊を招いたこと、

さらに第2代皇帝である劉禅の寵愛を受けた黄皓(こう こう)という宦官による悪政により宮中が乱れたことによって国力がさらに衰退したことで、最後は魏に攻め込まれて滅亡してしまいました。

263年 蜀漢の滅亡

263年 蜀漢の滅亡

蜀漢 第2代皇帝 劉禅

蜀漢 第2代皇帝 劉禅

つまり、度重なる外征と国内での内輪もめにより国力を衰退させてしまったことが滅亡に繋がってしまったわけですね。

なんで軍が疲弊するのに北伐を繰り返すのか気になっていたのですが、魏、呉、蜀の国力は魏が圧倒的に高く、蜀が一番国力が低いので、四川盆地にこもって防衛に徹していても、時間が経てば経つほど人口や国力の差がどんどん広がってしまうため、諸葛亮は無理してでも外征する必要があったみたいですね。

まとめ

蜀漢は軍事的に強い四川盆地にこもらず、外征を繰り返し国力を衰退させてしまったのですが、逆に防衛に徹したifの世界も見てみたいですね。

蜀漢の次は、孫呉の方もいつか記事にしてみようかな?

ということで、三国志 蜀漢が成立した地「四川盆地」についてでした。

 

秦や漢が首都を置いた要害の地「関中」

皆さんこんにちは。

前回作った中国の地形図の中に、軍事的に強そうだなあと感じた地域がありました。
その地域は中国の陝西省(せんせい しょう)にあり、古来から歴代王朝の首都が置かれ栄えた場所のようです。

↓前回作った地形図になります。

中国 地理

中国 地理

前回の記事↓

kohunzakki.hatenablog.com

関中の場所

関中の場所

↑ということで今回は、上の写真の赤で〇をしてある「関中」という地域について話していこうと思います。

どうぞ、お楽しみください。

関中の地理

関中とは中国の陝西省中部、黄河の支流である渭水(いすい)流域に広がる盆地一帯を指し、渭水平原ともいうみたいです。

中国 陝西省

中国 陝西省

タイトルにも要害とあるように、渭水盆地は北の黄土高原や南の秦嶺山脈といった天然の要害に囲まれており、東側の華北平原に出る入り口側は黄河という大運河が巨大な堀の役割を担っています。

また、渭水は関中平原を潤したことから、農耕にも適した場所であり、こもって守るにはもってこいの地域のようです。

黄土高原と秦嶺山脈

黄土高原と秦嶺山脈

函谷関や武関

こうした防衛にうってつけの場所をさらに強化するように設置されたのが、漫画キングダムにも登場する函谷関(かんこくかん)や武関といった巨大な関所だったみたいです。

首都と関所の位置

首都と関所の位置

華北平原にある中国の主要な地域から関中を攻めるには、函谷関や武関といった守備の固い関所を通らないといけなかったことや、反乱が起きた時にも対処しやすかったことからも、いかに防衛に適した地域であったかが伺えますね。

 

洛陽と長安

天然の要害に囲まれた咸陽・長安に対して、洛陽は関中の東側の平坦な華北平原にあります。

華北平原にあることから、交通の便が良く経済的に有利な場所になるようです。しかし交通の便が良いことから、守りに弱く、軍事的には不利なようです。

 

三国志演武で有名なスリーキングダムというドラマがあるのですが、朝廷で専横を極めていた董卓(とうたく)が、反董卓連合軍と戦い大敗した時、洛陽を焼き払い長安に逃げ込んでいます。

三国志 地図

三国志 地図

なぜ都を焼き払うような勿体ないことをしたのかずっと疑問に思っていましたが、長安のほうが軍事的にも優れた場所であったことが洛陽を焼き払った要因になったことが分かりました。

たしかに、逃げ込める安全な場所がある状況の中、今いる場所が敵に占拠され使われるぐらいなら、自分も焼き払うかもしれないです(´-ω-`) それでも勿体ないと感じますが・・

関中のその後

要害に恵まれ繁栄した長安でしたが、唐代末期以降は戦乱で荒れたことや、人口増加による食料需要に生産や輸送能力が追い付かなくなったことで、政治・経済の中心はより便利な東の方へ移り、長安は縮小し一地方都市となっていったようです。

洛陽の方も五胡十六国時代を経た宋代以降には、食料輸送でより便利である開封という東方の都市に首都機能を取って代わられ、元代以降も都に選ばれなかったことで、重要度は下がっていくみたいです。

まとめ

軍事では関中の咸陽・長安、経済では洛陽というように、都市によって特性が分かれているのが面白かったですね。

そんな繁栄した都市も、最後には別の都に主役の座を取られてしまうのがまた儚いです。

ということで

以上、秦や漢といった帝国が首都を置いた要害の地「関中」の話でした。

 

漢帝国の西域について

皆さんこんにちは。

今回はずっと前から気になっていた漢代のある地域のことについて話していこうと思います。
その地域は中国西方のタリム盆地に存在し、古代から「西域」と呼ばれた場所になります。

前漢 領土

前漢 領土

漢帝国の地図を見てみると、西方に伸びるようにして領土が広がっていることが分かります。
なぜこのような形なのか、どういった経緯でこの場所を支配したのか、調べてみましたので、どうぞお楽しみください。

西域の地理

西域に存在する国々の情報が初めて記録に現れるのは、『史記』大宛伝になりますが、中国の歴史書における西域という語は『漢書』西域伝にて初めて登場しました。

漢書』西域伝では、天山山脈崑崙(クンルン)山脈に挟まれた、その大部分が砂漠であるタリム盆地が西域の範囲とされました。

タリム盆地

タリム盆地

前漢の領土が西方に伸びたような形になっているのは、山脈の存在によることが大きいことが分かりますね。

 

下にある画像、作るのにめちゃくちゃ時間かかっちゃいました(;´Д`)ツカレタ・・・

中国 地理

中国 地理

この地形図を見てみると、現在の中国の国境も大きな山脈によって決定したことが想像できますね。

前漢が西域に進出した背景

前漢が西域に進出した背景を簡単にまとめると、以下のようになりました。

 

前漢創始者である劉邦の時代、漢帝国は冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう)が率いた北方騎馬民族匈奴に敗れたことにより、それ以降皇帝の娘を贈らなければならなかったり、匈奴に対し贈り物をしなければならないなど、匈奴に有利な状況が続いていたそうです。

高祖 劉邦

高祖 劉邦

そういった高祖の代から受けている屈辱的な状況を打破するために、第七代皇帝である武帝匈奴を討伐するために外征を行ったそうです。

第七代皇帝  武帝 劉徹

第七代皇帝 武帝 劉徹

下の画像は武帝即位時の漢の領土になります。

ちなみに、武帝匈奴討伐の他にも、南方や東北などにも外征を行い漢の最大領域を築きました。

武帝即位時の漢帝国

武帝即位時の漢帝国

前漢 武帝時代

前漢 武帝時代

武帝は対匈奴策として、西域を抜けた先にある大月氏国と対匈奴同盟を結ぶために、張 騫(ちょうけん)という使者を派遣している。
月氏国は、かつて匈奴と戦い敗れた大月氏中央アジアまで逃れてきたことで造られた遊牧国家です。

中央アジアの西域諸国

中央アジアの西域諸国

張 騫は匈奴に捕らえられ、10数年もの間匈奴で過ごしますが脱出し、やっとの思いで大月氏国にたどり着きました。

しかし大月氏はこの地で既に豊かな生活を送っており、匈奴に対する復讐心は無くなっていたことから対匈奴同盟は成立しなかったみたいです。

漢に帰国し、タリム盆地にあるオアシス都市国家群や西域の名馬や物珍しい物品の情報を持ち帰ったことが、前漢が西域に進出することへの大きな貢献になったようです。

ちなみに、この帰国途中に張 騫は再び匈奴に捕らわれてもう一度脱出しています。

めちゃくちゃ不運だけど幸運でもありますね(;゚Д゚)

まとめ

個人的に西域諸国の領域の形が山脈によって形作られてるのが知れて、かなり満足です。

また、張 騫が持たらした西域の情報によって西域諸国との交易の道が開かれ、それが後にシルクロードになると思うとロマンがありますね。

 

ということで

以上、漢帝国の西域の話でした。

 

2000年以上前から腐敗を免れて保存されてきた漢代の湿屍遺体

皆さんこんにちは。

今回は昔偶然知った遺跡のことについてお話していきたいと思います。

その遺跡の名は、「馬王堆漢墓(ばおうたいかんぼ)」です。

名前からして、日本の遺跡ではないことがすぐに分かった方もいるかもしれません。馬王堆漢墓は中国にある漢の時代の遺跡です。

ミイラの画像が出てくるので、苦手な方はすみません。

どうぞ、お楽しみください。

墳墓の場所と被葬者

馬王堆漢墓は、中国の湖南省 長沙市 にあり紀元前2世紀の頃に造られました。

東西に並んだ二つの墳丘で構成されており、初めに発掘された東側が1号墳であり、西側が2号墳となっています。

南側には1号墳の盛り土に覆われる形で3号墳があったようです。

 

被葬者は、前漢初期に長沙国の宰相をつとめた利蒼(り そう)とその妻子だそうです。

前漢 長沙の位置

前漢 長沙の位置

長沙国

(漢代に設置された諸侯の領地のこと)

宰相

(君主を補佐する役人たちの中で最高位の官吏のこと)

 

湖南省は下の地図ので塗られている範囲です。
長沙市緑の点がある場所にあります。

中国の地図 湖南省と長沙市

中国の地図 湖南省長沙市

ちなみに前漢は紀元前206年に劉邦により建てられた大帝国です。

劉邦

劉邦

前漢 初期

前漢 初期

辛追の遺体

この墳墓の何がすごいのか、それは被葬者である利蒼の妻、辛追(しん つい)の遺体の保存状態が極めて良かったことです。その肉体は、まるでさっきまで生きていたかのような弾力があったようです。

 

ちなみに、1号墳に葬られていた女性の名前が辛追であるということは、副葬品の中に「妾辛追」と書かれた印章が発見されたことから判明しました。

利蒼の墓とされる2号墳からは「利蒼」と刻まれた玉印や、「長沙丞相」と刻まれた銅印が発見されています。

辛追の遺体

辛追の遺体

このようなみずみずしい遺体の状態を、湿屍(しっし)というみたいです。

ミイラいうと、カラカラで干からびているイメージがありますが、脳、内臓といった臓器や血管や筋肉も水気を含んだ状態で残っていたというのがすごいですよね。

遺体を解剖して判明したこと

亡くなった年齢は50歳前後であり、生前多くの病気を患っていたことが分かりました。

内臓付近の動脈に多くの脂肪がついていたことから、生活習慣病を患っていることが判明しました。

肥満の人に起こりやすいとされる胆石症により、胆のうの中に石のような塊ができ、その胆石が胆管に詰まった時の痛みに、弱った心臓が耐えられなかったことが死因であると考えられるようです。

また、胃の中に真桑瓜(マクワウリ)というメロンの様な果物の種が大量に入っていたことから、亡くなった季節が夏であるということも判明しているようです。

 

副葬品の中には漆器や土器といった食器の他に、同じく漆器、土器、そして竹で編んだ籠といった容器の中に家畜の肉や骨、野菜、穀物が大量に入っていたことから、辛追は肥満になるのも伺えるぐらい、食にこだわりを持っていた人物であったことが分かりますね。

 

下の写真は湖南省の博物館に展示してある辛追の生前の姿を想像したものになりますが、辛追は生活習慣病になるくらい肥満体型であったようなので、少し現代風に美化しすぎなような気がしますね。太る前の姿なのかな?

辛追の生前の姿

辛追の生前の姿

ここまでの情報で、辛追の遺体の保存状態が極めて良かったことは分かりました。では、利蒼とその子の遺体はどうなのか?というと、残念ながらどちらも骨しか残っていなかったようです。

 

辛追の遺体はなぜ腐敗しなかったのか

馬王堆漢墓がある地域は湿度と気温が高く、遺体の腐敗を防ぐには条件がかなり悪い。

そんな環境の中にある辛追の遺体が、2000年以上もの間腐敗しなかった要因を調べてみると、以下のものがありました。

一号墳を上から見た図

一号墳の墓壙(ぼこう)を上から見た図

・遺体の棺が、深さ16mの気温が低い地下に安置されていたこと。

・遺体を洗浄し消毒した後に絹製の2枚の着物と18枚の布で遺体を覆ったことで、腐敗を招くバクテリアの発生を防いだ可能性があること。

・遺体は辰砂(しんしゃ)という水銀の化合物を含んだ液体に浸かっており、これがバクテリアの発生を防いだ可能性があること。

・遺体を4重の棺に入れて、その外側を木槨で保護し、それらを埋めるようにして周りを5トンの木炭で包む。さらにその周りを厚さ1mの粘土で覆う。その上に地上まで土を盛っていたこと。

棺を上から見た図

棺を上から見た図

遺体が腐敗しなかった決定的な理由は未だに謎のままだそうですが、上に挙げた遺体周りの環境が腐敗を防いだ可能性は高いそうです。

たしかにここまで徹底的に密閉状態にして、バクテリアや気温から遺体を守ったら、腐敗を防げそうな気がしますね。湿気が多い日本でも、同じように埋葬した場合、湿屍遺体が残るのかどうかが気になるところです。

まとめ

紀元前の遺体なのに、骨ではなく生身が残っているというのは現実味が無くて、不思議な気分になりました。ほんとよく残ってたなあと

ということで

以上、2000年以上前から腐敗を免れて保存されてきた漢代の湿屍遺体の話でした。

馬王堆漢墓は湿屍遺体の他にも、工芸品や帛書(はくしょ)・帛画(はくが)といった貴重な出土遺物が発見されていますので、もし時間があれば是非調べて見てください。

涼をとるために古来から食べられてきた かき氷

皆さんこんにちは。最近熱くなってきましたね。

夏の季節がもうすぐやってくる時期になってきましたが、夏に食べる物といえば、かき氷があります。

夏の風物詩 かき氷

夏の風物詩 かき氷

夏になると友達と祭りに行き、かき氷を食べていた懐かしい記憶が思い浮かぶのですが、ある日ふと かき氷 の歴史について考えたことがあります。

かき氷はいつから存在していたのでしょうか?

初めてのブログの一回目として、人々に愛されてきた かき氷の歴史について話していこうと思います。

かき氷と清少納言

かき氷に関する最も古い記録は、平安時代清少納言により書かれた『枕草子』のあてなるもの(上品なもの)の段にあります。

平安時代(794年~1185年)

清少納言(960年頃に生まれ、1020年前後まで生きた人物)

枕草子(西暦1001年頃に成立)

清少納言

清少納言



枕草子』 あてなるもの

削り氷(けずりひ) 金鋺(かなまり)

削り氷にあまづら入れて新しき金椀に入れたる

この記述を現代語訳すると、

「新しい金属製の椀に削った氷と甘葛を入れたもの」 となります。

「あてなるもの」 とあるように、冷蔵庫や製氷技術が存在しない当時としては、氷は貴族しか食べることのできない贅沢品であったようです。

 

金椀(かなまり)はこんな感じだと予想

金鋺(かなまり)予想図

金鋺予想図



氷とあまづら

~氷の保管場所~

冷蔵庫が無い時代、すぐに溶けてしまう氷をどのようにして手に入れていたかというと

氷室(ひょうしつ・ひむろ)と呼ばれる保冷機能がある施設(洞窟や深く掘った穴)に、冬にできた天然の氷を保存しておき、夏になると取り出し、都まで運んでいったようです。

 

~あまづら~

削り氷にはあまづらという甘味料をかけていたようです。

甘葛(あまづら)とは、ぶどう科のツル性の植物からとれる樹液を煮詰めたシロップのようなものであり、古くから甘味料として使われたみたいです。砂糖が登場したことにより需要が減り、今では使われることが無いようです。

 

甘味料のことで疑問に思ったこととしては、

蜂蜜

蜂蜜



蜂蜜は削り氷の甘味料として使われなかったのか、という点です。

 

調べてみたところ、日本の歴史書に蜜蜂の記録が初めて登場するのは、日本書紀の642年(飛鳥時代593年 ~ 710年)の頃を記した記述であり、養蜂を試みたところ失敗してしまったという記録が残されているようです。

また、奈良時代平安時代には、蜂蜜が朝廷への貢ぎ物として献上されていたことや、薬として使われていた記録もありました。食用の他にも薬としても使われていたことから、かなりの貴重品だったことが分かりました。

 

これらのことから憶測になりますが、削り氷の甘味料としては、植物から作ることができる甘葛を使った方が、蜂蜜よりもコスト的にも安く簡単に作れたのではないかと思いました。

 

削り氷はどのようにして食べられたのか

絵が残っていないので、削り氷がどのような見た目をしていたのかは分かりませんが、再現するとなると、これらのような見た目になると思います。

削り氷 予想図

削り氷 予想図



現代にある かき氷器 ならば、上にある かき氷 のように、氷を細かく削ることができると思いますが、そういった物が無い平安時代には刃物のような尖った物で氷を削るしかなかったはずです。

また、氷室は屋敷から離れた場所にあることから、細かく削った氷を運んでいるうちに溶けてしまい、ただの冷たい水になってしまいます。

削り氷(けずりひ)予想図

削り氷 予想図



そうなると、上にあるように少し大きめのサイズに削った氷を食べていたのではないかと思いました。

日本では弥生時代の遺跡から、スプーンの様な物が見つかっているようですが、どうやら祭祀用であったようです。

ひょっとすると、スプーンで削り氷を食べていたかもしれませんが、平安時代頃の貴族社会は、箸食が浸透していることから、削り氷も箸で食べていたのだと思われます。

 

上にある削り氷が、ひな人形の近くに置かれているような高坏に乗せられ、貴族たちに提供されたのかもしれません。

高坏

高坏



削り氷の本当の姿は、細かく削った物なのか、それとも箸で掴めるサイズに削った物なのか。

いずれにせよ、甘葛がかかった削り氷を口に入れて溶かし、冷たく甘い氷水を飲むという楽しみ方は変わらないと思います。

 

まとめ

以上、涼をとるために古来から食べられてきた かき氷 の話でした。

かき氷は古くから夏の涼みの楽しみとして愛され、現代でもさまざまなかき氷が人気を集めています。

ぜひ、今年の夏にはかき氷を楽しんでみてください。涼しさと共に、歴史と文化を感じることができるでしょう。