こふんの雑記

日常生活でふと気になったことや、その他のことも色々書いていこうと思います。

三国志の英雄 曹操の陵墓と遺骨について

皆さんこんにちは。
前回は三国志に出てくる国のひとつ、蜀漢が成立した地「四川盆地」について記事にまとめてみました。

↓前回の記事

kohunzakki.hatenablog.com

じゃあ今回も魏か呉の地理をやるのかというと、そういうわけでもなく
今回は三国志に登場する英雄のひとり、曹操の陵墓から得られた情報について話していこうと思います。   
どうぞ、お楽しみください。

曹操について

まずは曹操の人生について紹介していきます。

曹操(後漢末期 155年に生まれ、220年まで生きた人物)

曹操後漢末期 155年に生まれ、220年まで生きた人物)

曹操は、後漢末期155年に 豫州(よしゅう)沛国(はいこく)、現在の中国 安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)で生まれました。

安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)

安徽省(あんき)亳州市(はくしゅう)

175年20歳になった曹操は、郎官(ろうかん)という皇帝の身近に使える官職に推薦され、官吏としての人生をスタートしました。曹操の祖父曹騰(そうとう)が中常侍という高位の宦官だったことから、推薦を受けることができたという感じですね。

その後、洛陽北部の治安を維持する北部尉に任じられると、たとえ有力者(当時の皇帝に寵愛された宦官)の関係者であったとしても、法を違反すると厳しく取り締まりました。その働きぶりが認められたことで(というより、宦官に疎ましく思われたことで)、栄転として頓丘郡(とんきゅう)の県令に任じられ、洛陽から遠ざけられましたが、その後議郎という官職として再び召し出され重用されました。

頓丘県のあった地域

頓丘県のあった地域

184年曹操が30歳の時、群雄が割拠する原因となった「黄巾の乱」の平定で、皇后何氏の兄 何進(かしん)、皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)や、董卓(とうたく)孫堅劉備三兄弟といった三国志で有名な武将たちと共に戦い活躍したことで、済南群の宰相に任じられ、ここでも厳格で誠実な運営を行い、官吏の汚職を摘発するなどの功績をあげています。

黄巾の乱とは

漢王朝が天下を治め400年が経った後漢末期の時代 政治中枢では、宦官・外戚勢力が私腹を肥やすために、そして出世して官職を高めるために、民に重い税金を課しており、徴収された税金で賄賂が堂々と行われるなど、政治は腐敗しきっていました。政治的な腐敗や重税の他に、天災による飢饉が起こったことで社会が混乱しました。

そこに太平道という新宗教を開いた張角が、生活に困窮していた農民を率いて184年に挙兵し大反乱を起こしました。

斉南群があった地域

済南群があった地域

黄巾の乱を平定した後も、賄賂の横行や政府腐敗などは結局治まることはなく、民衆の苦しみは続きました。政治を主導している朝廷側が勝利したので当然と言えば当然ですが、世直しにはならなかったわけですね。

黄巾の乱の後、189年 第12代霊帝の皇后・何(か)皇后が生んだ劉弁と、霊帝の側室 王栄が生んだ劉協とで、次期皇帝の後継争いがあり、何皇后側が勝利したことで、劉弁が即位しました。その過程で何皇后陣営である何進は宦官勢力に殺され、その後に政治を牛耳っていた十常侍などの宦官勢力の大分部は、袁紹袁術といった三国志で活躍する武将に殺されました。

朝廷が混乱していた時に、西涼から大軍を率いてやってきた董卓が、洛陽を制圧し、劉弁を廃して劉協を皇帝の位に擁立しました。この時の曹操は、武官として董卓に取り入り、暗殺しようと試みますが失敗し逃亡した後に挙兵します。

こんな感じで、王朝の末期はもはや自身で乱を平定して立て直すのが不可能なぐらい衰退しちゃうんですよね 後は周りの有力者たちに良いように利用されます。

皇帝の位を簒奪したい勢力が、国を復興できる有能そうな皇帝や臣下を暗殺したりして、意図的に幼い皇帝を即位するとかもあったりするんですかね

192年 群雄の領土

192年 群雄の領土

董卓(とうたく)はその後、幼い劉協を傀儡とし朝廷で暴政を極めたことで、190年に各地で董卓連合軍が挙兵しました。董卓は連合軍との戦いの過程で、都の洛陽を焼き払い西の長安に撤退したことで、元より結束力の無かった董卓連合は解散しました。

その後の群雄たちは、対立し領土の奪い合いをしているように、みんな漢を立て直す気はさらさら無く、関中に立てこもった董卓よりも、自身の勢力を拡大することに関心を寄せた感じです。

長安に撤退した董卓はしばらくすると、義理の息子である呂布と司従の王允(おういん)の共謀によって殺害されました。なんとこの王允は漫画キングダムで登場する信のライバルの一人である王賁の子孫だそうです。

三国志 都市

三国志 都市

192年に董が暗殺され、混乱に陥った長安から逃れた第14代皇帝 劉協は洛陽へと帰還しましたが、董卓によって既に焼き払われた後だったので途方に暮れてしまいます。そこで劉協を保護したのが曹操です。

196年曹操は、自身の本拠地である許昌への遷都を要望し、劉協はこれを承諾しました。皇帝を手中におさめたこと、黄河下流域周辺の勢力や呂布袁術に勝利したこと、そして200年 官渡の戦い黄河の北、河北の支配者 袁紹と戦い勝利したことで勢力をさらに拡大させ、華北平原の覇者となりました。そして208年に漢の丞相になります。

198年 群雄の領土

198年 群雄の領土

華北平原の次は、長江周辺の後の呉の勢力範囲にある地域を支配するべく動きます。劉表が治める荊州劉表が亡くなったことで、息子である劉 琮(りゅうそう)が曹操に帰順したことで簡単に手に入りました。しかし、208年 兄孫策の後を継いだ孫権劉備の同盟軍に赤壁の戦いにて大敗を喫したことによって、曹操は撤退することになり、荊州もすぐに攻め取られてしまいます。

211年に涼州雍州の馬超韓遂らを、秦代に函谷関があった場所の西側にある黄河渭水が分かれる地域の潼関(どうかん)で破った後、212年に魏公の位に登ったことで、魏国の下地ができあがります。

214年までに涼州・雍州・関中を制圧し、215年に漢中の張魯(ちょうろ)を降伏させた(219年に蜀漢劉備に制圧されちゃいますが)ことによって、華北における主要地域を完全に統一しました。この時点で、曹魏の領土が確定した感じです。216年に漢中から戻った曹操は、魏王の位に登ります。

皇帝の簒奪まであと一歩のところまで来ましたが、220年 曹操は天下を統一することなく65歳で没しました。曹操自身は皇帝になることはありませんでしたが、子どもの曹丕(そうひ)が魏王の位を受け継ぎ、第14代皇帝の劉協から禅譲を受けたことで皇帝となり、魏を建国しています。

三国時代

三国時代

西高穴2号墓について

曹操の墓である西高穴2号墓(せいこうけつ)は、河南省安陽市 にあり、3世紀の頃に造られました。1号墳と2号墳が発見されましたが、専門家によると2号墳が曹操のお墓のようです。

西高穴2号墓の所在地

西高穴2号墓の所在地

スロープ状の墓道から15メートルほど地下に降りていくと、墓室に繋がるように造られています。墓道の長さは、39mぐらいで幅は10mくらいです。

西高穴2号墓 墓道

西高穴2号墓 墓道

地下にある墓室は、上から見ると甲という字の形に似ている4つの部屋から構成されています。真ん中にある前後の部屋や入口右側の部屋の天井は四角錘状をしており、それ以外の部屋はドーム状の天井を呈しています。

2号墳からは、男性1人女性2人の3人分の遺骨が確認されています。副葬品は男性用のものが多いことから、墓の主は男性であるようです。

西高穴2号墓

西高穴2号墓

西高穴2号墓が曹操の陵墓である根拠

西高穴2号墓が曹操の陵墓である根拠を調べてみると以下のものがありました。

・出土した男性の頭骨を鑑定すると、曹操が没した60歳前後の年齢に相当するものであると分かった。

・「魏武王常所用慰項石」と刻まれた石枕や、「魏武王常所用挌虎大戟」といった魏武王と刻まれた石碑が多数出土している。

・墓の規模が漢・魏代の王侯と同じレベルであり、曹操の身分とも一致している。

・墓葬や副葬品の特徴が、後漢後期のものと類似している。

・規模は大きいが墓の内装や副葬品はそれほど豪華ではなく、曹操の死に際に残した「戦中であることから、陵墓は質素に、金玉など宝の類も副葬しないものとせよ」という言葉と一致している。

・陵墓の位置が、曹操の遺令や後趙時代の魯潜(ろせん)という人物の墓誌に記された陵墓の位置関係と一致している。

これだけの根拠があれば、曹操の墓である可能性は高そうです。ちなみに、女性2人の

遺骨は、卞氏(べんし)という曹操の妻と、側室の劉夫人のものだそうです。

曹操の歯について

曹操の遺骨は、頭蓋骨と上あごの骨が見つかっている。特徴的だったのは上あごの骨についていた歯であり、虫歯がかなり進行していてひどい状態だったようです。

自分も数年前、高校生の頃に治療したはずの歯の根の部分にのう胞という細菌の塊ができてしまい、歯根を切除する手術をしたことがあります。手術前は寝れないぐらいの痛みでした。曹操がどれだけ痛がっていたのかが想像できます(;´д`)

現代は歯医者に行けばなんとかなりますが、古代においては、虫歯によって神経が死ぬまで、痛みにただ耐えるしか無いんですよね。神経が死んで長年放置したら、もっとやばいことになりますが・・・

曹操はスリーキングダムというドラマでも、頭痛に苦しんでいる描写があり、群発頭痛を患っていた可能性があるみたいですが、虫歯は長年放置すると、ミュータンス菌が脳や心臓に達することで、脳梗塞心筋梗塞やその他の病気を引き起こします。実際に死亡した例もあるみたいなので、もしかしたら虫歯が曹操の頭痛の原因の1つだったかもしれないですね。

まとめ

曹操の陵墓のことを中心に話していこうと思っていたのですが、陵墓のことで話すことが少なかったので、人生の方を長めにしてしまいました_(:3」∠)_

あの有名な曹操の遺骨が現存しているのって中国人的には、日本でいうと信長や秀吉の遺骨が発見されるような感じになるのかな?

あと、虫歯は痛みが無くなっても放置したら絶対にだめですし、日頃から歯医者で定期健診を受けるように心掛けてください。

ということで

以上、三国志の英雄 曹操の陵墓についての話でした。