こふんの雑記

日常生活でふと気になったことや、その他のことも色々書いていこうと思います。

三国志 呉が成立した地「長江中下游平原」について

皆さんこんにちは。
前回は三国志 魏の曹操の陵墓について記事にまとめてみました。

↓前回の記事

kohunzakki.hatenablog.com

前々回は蜀漢の成立した地「四川盆地」について記事にしているので、今回は三国志に登場する国のひとつ、孫呉が成立した長江中下游平原についてお話していこうと思います。

どうぞ、お楽しみください。

長江中下游平原とは

長江中下游平原とは、その名の通り長江の中流域と下流域に沿った形で広がっている平野であり、東北平原や華北平原に次いで3番目に広く、中国の三大平野の内の1つです。

中国 地理

中国 地理

大きさのイメージとしては、20万平方キロメートルなので、日本列島の本州(22万7942平方キロメートル)と大体同じくらいの広さを有しており、とてつもなく巨大な平野です。

王朝の都が置かれた地「関中」や、蜀漢が根拠地とした「四川盆地」は、どちらも険しい山脈といった天然の要害で囲まれている土地であることを記事にまとめましたが、呉が根拠地とした長江以南の江南と呼ばれた地域もまた「長江」という天然の巨大な堀によって、華北平原と隔たれており、華北の勢力からの侵攻を防ぐのに適した地であることが分かります。

 

中国 地理

中国 地理

長江中下游平原一帯は、温暖で雨が良く降ることから農業に適した穀倉地帯だそうですが、呉が建国されるまで江南の地は本格的な開発が進んでいなかったようです。

あまり強い勢力がいない空白地帯だったからこそ、孫策孫権が呉の基盤を築くことができたのかも(´-ω-`)

でも、本格的に開発が進んでいなかったにしても、三国時代から400年以上前の春秋戦国時代に、大国楚が華北の国々に対抗できていたことから、元々国を維持できるぐらいの生産力はあったのですかね? 本拠地が長江中流域にあったにせよ、華北平原にまで領土を広げていた楚とはまた条件が違うかもですが・・・

三国志 地図

三国志 地図

上の地図を見ると呉の領土は広く、長江中下游平原も日本の本州ぐらいの広さを誇ります。

中国 山地

中国 山地

↑赤く塗っている部分が、標高が高い山脈や高原になります。

しかし、見ての通り呉は領土の大部分が山地であり、華北平原の平地の面積と比べるとその差は歴然です。国力も人口が集中する中華の中心地を抑えている魏と比べると、雲泥の差があったようです。それでも三国の内最後まで生き残れたのは、やはり長江の存在とそれを活用した水軍の存在が大きいのでしょう。

呉の水軍

そういえば、呉の水軍の強さは三国志のドラマ、スリーキングダムでも良く言及されてた記憶があります。川といっても大きい軍艦が展開できるぐらい、幅がとてつもなく広い大河ですので、まさに天然の堀のような役割を果たしたのだと思います。

全然関係ない話になるんですが、663年の斉明・天智朝期の日本が、亡国の憂き目にあった百済を救援するために朝鮮半島の白村江という場所に、数万の兵を送り、当時大陸を治めていた唐と戦争を始める訳ですが、唐は古代から培われてきた水軍と巨大な軍艦を以て、日本の水軍を大いに苦しめたのかもしれません。

そもそも当時の日本は国内でも本格的な海戦をやったことが無いっぽいので(間違ってるかもしれませんが)、勝負にならなかったかもです。日本国内での最初の本格的な海戦は源平合戦になるんですかね?

孫呉の最後

呉 初代皇帝 孫権

呉 初代皇帝 孫権

長江中下游平原に成立した呉ですが、初代皇帝孫権の晩年、朝廷では後継者選びなどの政争が相次ぎ、臣下達も対立をし始めました。そんなことが続く中で、第四代皇帝孫晧が暴君だったりと、朝廷内がさらに混乱に陥りました。

そして最後は魏を簒奪し蜀を滅ぼした晋による水陸両方の侵攻を受けたことで、孫晧(そんこう)が降伏し、呉は滅びることになりました。内輪もめして国力が衰退しちゃってるのは、蜀漢と似たところがありますね

長江は北からの侵攻には強いそうですが、蜀漢の地を抑えた勢力によって長江の上流から中・下流域に向けて侵攻されることには弱いみたいなので、晋に長江上流を抑えられたことが呉滅亡の要因の1つなのかもしれません。

呉 第四代皇帝 孫晧(そん こう)

呉 第四代皇帝 孫晧(そん こう)

呉の滅亡

呉の滅亡

まとめ

長江中下游平原はイメージしていたより、ずっと広くてちょっとびっくりです。あと、久しぶりにブログを書いたので、文字の進みが遅くてかなり大変でした(;´Д`)

これからも不定期で頑張ります。

ということで、孫呉が成立した地「長江中下游平原」についてでした。